クラウディレイン 2009年12月
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三国志の英雄

「三国志の英雄」と聞いて、大多数の人が頭に浮かべるのは

世間体を気にする男、劉備
言わずと知れた天才、諸葛亮孔明
知勇に優れた仁義の漢、関羽
豪胆かつ粗暴な猛者、張飛
忠義の士、趙雲
悲運の客将、馬超

と、いったようなイメージで蜀の有名所の武将が頭に浮かぶのではないだろうか。

それは三国志演技という書物が、あくまで『蜀=正義の味方』『魏=悪者・敵』という観点で記しているからに過ぎない。

それぞれに正義があり、目指すものあって然り。

俺とてもちろん三国の中では蜀が好きだと最初から思っているし、魏は敵国というイメージしかなかった。

あえて、有名な武将と国を、ここに記述してみようと思う。


劉備とは、大儀を為すと志し、その旗の下に仲間を集めてみたものの、大儀を為す度胸を持ち合わせず、多くの「無駄な」死者を出した人物である。
その代償に大国を「仲間たちに与えてもらい」、大国を得た後も大失態を犯している。
この男が英雄だろうか?私見では明らかに違う。むしろ、無駄に戦火を拡大させただけに過ぎない悪逆の徒ではないか。


関羽とは、知勇に優れた仁義の武将をいうイメージが強すぎるが、本当にそうだろうか?
三国志演技の中で、強さ以外に関羽が優れていたものがあったろうか?
千里行による劉備への忠義、これのみであろう。
その劉備から五虎大将軍の称号(蜀の武将のトップ)を送られたにも関わらず、その送られた名簿に黄忠・馬超の名があるのを聞き激怒したというではないか。あまつさえ「それならこんな称号は要らん」と、そこまで言ったそうだ。
世間体を気にしすぎる男である劉備と、その心を汲み、蜀の今後のために作った称号に何の考えもなく激怒し「要らん」とまで言ってしまうような男が忠義の士であろうか。
単に魏が居づらかったから逃げたのでは?と思われても仕方ない。
三国志演技を読んでいると、この男には他にも「それなら張飛と変わらんだろ」と思わされる面も少なくない。
智謀にも優れていたということだが、そんな場面は一幕も無かったはずだ。
誰がそんな印象を与えたのだろうか?
浅知恵で満足し安易に安心し、呉にだまされ、そして大失敗をして殺された男、それが関羽であったように思う。


張飛とは、武勇に優れた者なら誰でも「英雄」といえるのならばこの男もそうなるのだろう。
しかし「英雄」とは本来そういうものであったろうか?現在の世にあっても、ジャイアンが英雄に数えられないように、張飛が英雄であるはずはないのだ。
そんな人物だからこそ、恨まれて寝首をかかれる。自業自得としか言いようが無い。
それ以上何も語ることの無いただのヤクザ、それが張飛である。


馬超とは、この男についてはもはや数行で終わる。
潼関の戦いにて曹操を苦しめはしたものの、結局蛮族のような疑心暗鬼にかられ、味方を傷つけ自軍を崩壊に導いた無残な武将である。野心も大望もなく、ただ仇討ちがしたかっただけで、それに失敗し騙され、蜀に着いただけのこと。


趙雲とは、なるほどこの人物の最盛期に関してはとりわけて粗もなく素晴らしい人物であったと言わざるを得ない。
もちろん俺も蜀おいて趙雲が一番好きなのだが。
しかし人間というのは、全盛期において素晴らしい人物であったら、老後はどんな人物になっても許されるというわけではない。
歴史上の人物とは、まして英雄と称されるかもしれない人物ともなると、一生の流れを見て判断されなければならない。
趙雲は病死していなければ魏延と結託し、蜀に謀反を起こしたのではないだろうか?
老いてなお戦場に出続けた趙雲は、演技に記されているのを見る限り、ほとんど魏延と態度が変わらないように感じられる。
歳をとると良い人間になる者とダメ老人になる人と別れるというが、趙雲はプライドの高さからきっと長生きしても醜態をさらしただけだっただろう。
全盛期の趙雲は文句なく三国一と思える程の「間違いない英雄」だが、一生を通すと「英雄ではある」という程度に収まるのではないかと判断する。


諸葛亮孔明とは、天才ではあったのだろう。しかし天才を上手く使いこなせず人才の足りなかった不器用な意地っ張りであったのではないかと思う。
三国鼎立。ここまでは100%彼の手柄であった。しかしながら、そこでとどまらなかったのが失態の始まりである。
後述することになるが、そもそも魏の総合的な意見として「蜀を攻め滅ぼしてしまえ」という考えは無かった。それは読んでいればわかることで、蜀が滅亡した年と、攻め込まれてしまった理由を考えれば、恐らく中学生でもわかる。
それであるにも関わらず、7度にわたって部下の進言も聞かず自分の天才のみを頼みとし、祗山に進出した強情っ張りでしかない。
そもそも、3度目までの侵攻は必要だったろう。
三国鼎立といっても、三国が共に力を持ち、牽制しあうことにより互いが互いの抑止力となり、それが刺激となり、良い緊張感をもって国務に励めたことだろう。
堕落した今の日本とはわけが違うが、三権分立。これがすなわち三国鼎立の重要な意味であったのだ。
1位の国を牽制し、自国を守るために、2位と3位の国が同盟を結び、お互いを牽制しあう。これも理に適っている。
3度目までの北伐への試み、これも建国理由からしても当然のことで、確実に必要なことであったと言える。
しかし4度目5度目と重ねて、何か得することがあったろうか?恐らく何も無い。
「もはや勝てない」そう分かったら(認められてこそ英雄)、ひたすらに自然崩壊を待ち鼎立を守り抜くことが何より大事なことだったのではないだろうか。
3度、ないし4の侵攻までで、魏には孔明のすごさが痛いほど伝わっているのだ。
孔明が南蛮平定を為した時「蛮土は恐らく、彼(孟穫)が存命の間は蜀に背くまい」と言っている。
その通りなのだ。この相手には自分たちは勝てないのだと、ちゃんと認められる人物が居るのならば、攻めては来ない。攻められないのだから、攻めようが無い。
生きることはゲームではない。
「ちょっと対戦しようぜ!」と始めて、負けても「もう一回!」そう言って笑えるような、そんな戦争ではない。
だからこそ必要だったのは最初辺りの侵攻だけだった。もうそれ以上手を出すことは失態でしかなかった。
だから謀反を起こされるのだ。
他人を信用していないからなんでもかんでも自分でしようと奔走し、体調を崩し死に至るのだ。
孔明という人物、自分の天才のみを頼りとし、人は自分よりも劣っているのだと決め付け、周りの意見は全く尊重しなかった。
全部自分でやらないと失敗すると決め付け、人の仕事まで奪い取る。
人間は、強靭なバイタリティがあれば一人でも生きていけるかもしれない。しかし国は人間一人では動かせないのだ。
仮に動かせたとしよう、しかしその人物が死んでしまえば一幕で瓦解する。
孔明は自分が死んだ後のことまで考えることのできなかった愚か者である。
勝てもしない戦を延々しかけるのではなく、内政によって国を富まし、富を蓄え、人物を育成するべきだったのだ。
これも後述するが、魏が攻めてこなかったのは、孔明を恐れたからだ。
孔明無き後は姜維・蔣涴・費禕、この三名の力を恐れていたからだ。
孔明は、無駄な戦をする前に、このような人物をもっと育て、それを国内外に広めるべきだったのだ。
人を認めず人を用いず、自分こそが唯一絶対の天才と頼み、死後のことは考えているようで考えていない無責任な頑固者。
諸葛亮孔明とは、そのような人物であったように思われる。


長くなったので呉の国は一緒くたにさせてもらうが、呉に野心なく、赤壁の戦いにおいて「劉備の後は自分たちが責められる番だ」と炊きつけられて戦ったにすぎない。
それも「刑州がもらえる」ということであるから戦ったのだ。
それなのに、孔明に騙され、もらえるはずのものがもらえなかった。
ただそれだけの理由でずっと刑州を獲得するだけのために蜀といがみあってきたのだ。
現に、刑州を「取り戻した」後は呉は滅亡するまで何もしていないではないか。
要するに、一番野心無く平和に国を運営していたのは呉であったのではないだろうか。
くれると言ったものを貰えず、貸したはずのものがいつまでも返してもらえず。
呉からしたら蜀はただの詐欺師・ペテン師の集団で、悪役である。
それなのに大局で見れば限界まで我慢して見守ったのだ。それだけでも評価されるべき国ではあったと思う。
しかしながら、周喩に関して言えば残念としか言いようが無い。
彼は虚栄心の塊で、才薄く、人を妬むことしかできない人物だったと断言できる。
周喩は呉の大天才で、周喩と孔明はライバルです。みたいな、そんな知られ方をしている三国志。
映画ではなぜか主役にまでなってしまった無能の士周喩。
ライバルなどとおこがましく、孔明に一段どころか10段も20段も下にいる大した知略を持ち合わせていないのが周喩である。
そういう人物の死に方は決まって、ほとんど無いはずの知に頼っておぼれた結果の戦死である。
そういう点では、国での立場からも関羽と周喩は同じようなものともいえる。


さて、ここまできてやっと英雄の登場である。


「この人物こそが英雄」という人物は結局蜀にも呉にも居なかった。
であれば後はどこの国に?
答えは魏だ。
おかしなことに、俺は魏が一番嫌いなのだ。
三国志演技において魏が敵なんだから、それは至極当然の刷り込みであるといえる。
しかしながら自分が嫌っている国(三国志演技の当時の作者もそうだったろう)だからこそ、そう思える程の人物は本物だと感じられるのだ。
自分が好きなものの中から「好きなものを上げて」といわれれば、好きなのですから数多く出てくるものだが、
嫌いなものの中から「好きなものを上げて」といわれても「だから、嫌いなんだって」で終わってしまうのが普通である。
それでも魏に名将が居るのだ。
その者の名は


司馬懿仲達その人である。


彼は魏帝4代にわたり魏に仕え、その才を発揮する場を与えてもらえないまま歳を重ねていった。
彼にとっては長すぎる「下積み時代」である。知を知るものは知者を知る時代。
他国に行けば恐らく重用されたであろう人物は、決して高からずの官職にいながらも、不平を漏らさず職を務めた。
ある日司馬懿は軍議に列していた。
蜀にそそのかされた呉が攻めてきているというのである。
彼が表舞台に姿を現したのはそこからだった。
そこでの発言を機に司馬懿は曹丕に認められ、そこからやっと彼が本来の力を発揮できる場を与えられるようになる。
しかしながら、彼を高く買ってくれた曹丕は若くして没してしまう。
死出の際に、曹丕は司馬懿らに子である幼帝曹叡を託すのだ。
託された司馬懿は、その託された使命のため、今後の魏国のためを思い、遠く遠方の地に自ら赴任していく。
しかし、優れた人物はいつの時代も煙たがられ、除かれようとする運命にある。
彼もその例外ではなく、国のためを思えばこそ自ら望んで都から遠く離れて赴任した田舎であるのに「あいつは頭が良いからきっとあの領地から兵を動員して謀反を起こすに違いない」という謀反の疑いをかけられて、帝自らが率いる軍によって成敗されようとしていた。
しかし、何も知らない司馬懿は、遠くの都からはるばる幼帝が来られるということで、日ごろから国の境を守るために(もちろんその目的で行き、他意はない)兵を調練していたから、その兵をぜひ見てもらおうと、兵を率いて出迎えに向かった。
しかし、はなっから謀反を起こすものだと疑ってかかっている都の軍からは、それが司馬懿の謀反の表れだと判断されてしまい、司馬懿は誤解を解こうと引き連れた兵を城に引き返させ、自分の身一つの状態で幼帝に伏し、謀反の気持ちなどは微塵もないことを訴える。
しかし幼帝である。何も判断することができない幼帝は、司馬懿と一緒に幼帝を託された者にどうすれば良いかと意見を求め、その結果司馬懿は持っていた官職・権限を全て剥奪され、1庶民に落とされてしまったのだ。
それを心待ちにしていたのが蜀の天才諸葛亮孔明である。
魏において恐ろしいのは司馬懿一人と決めてかかっていた孔明は、司馬懿が失脚するのを知ると北伐の軍を起こす。
魏は曹真を指揮官として迎撃させようとするが、地位が高いだけの貴族になんとかできる相手ではない。
蜀は連戦連勝で魏を脅かした。
しかし不幸なことに、蜀は虚言・裏切り・怠慢によって総退却の憂き目にあってしまう。
今後7度の遠征全てことごとく失敗に終わったのは不運が重なったからとも、孔明の無茶な侵攻が仇となっているともいえる。
しかしながら、魏は再度蜀が攻め上ってくることに驚愕する。
退いてくれたかと思ったらまた攻めてくるのだ。
連戦連敗を重ね、眠れない日々を過ごして戦った曹真本人には今度こそ全くもって自信はない。
そんな時だ。
魏の中枢にも知を知るものが居る。
その人物の名は司馬懿である。
その進言により、司馬懿は元々もっていた官職・権限を全て戻され、さらに総司令官に抜擢されたのだ。
司馬懿は拒むことも恨み言をいうこともなくその命を受け入れた。
そしてそこから歴史的な孔明対仲達の戦いが始まるのだ。
だが、そこにすんなりいく前にもうちょっと考えてもらいたいのは、
四行前の文のことだ。
司馬懿程の人物が庶民に落とされ、大恥をかかされ、失墜させられていたにもかかわらず、司馬懿はちゃんと魏国に居たのだ。
きっと自分の力が必要になるだろうと、そうなったとき、いつか心ある者が自分を頼ってくれると信じて。
上記したが、知を知る者が知者を知る時代である。
司馬懿が他国に寝返っていたらおそらく魏国は滅亡していたであろう。
そもそも、国のための行動で謀反の疑いをかけられた。
忠誠を尽くしてきたはずの魏国に裏切られてもなお残り続けた司馬懿
そしてそれでもなお魏国を案じ、信じて、要請を受け入れた司馬懿
これこそが真の忠義の表れに違いない。
トップにありながら、名簿のメンバーが気に入らんと義兄弟からの心遣いを突っぱねようとした関羽なんかよりもよほど忠義の士である。
話が伸びてしまったが、そんなわけで司馬懿は孔明との戦いに身を投じることになる。
最初は孔明何するものぞと、息巻いて、対等に戦える自信をもっていた司馬懿だが、
軍略において孔明という人物、間違いなく三国一の名将であった。
司馬懿の及ぶところではなく、連敗を重ねた。
しかし司馬懿の素晴らしいところは、連敗を重ねることによって「相手を認めることができる」という能力を持っていたことだ。
外交面においても、自分の意見を否定され、別の意見を押し通されても、怒ることなく、我を通すことなく「それも一つの考え方にございます」と相手の意見を尊重し、いざ自分の意見が却下され相手の意見が入れられたとしても、不服を漏らすこともなく、本当にこの人物は「自分の名誉のため」ということではなく「魏国のためになるならば」という思いで尽くしてきた人物である。
相手を認められる仲達は、孔明はもはや自分の及ぶところではないと知ると、ひたすらに城を固める。
食料の乏しい蜀軍を食糧難で撤退に追い込むためだ。
どんなに蜀軍から辱められようとも、自軍の将から臆病者と罵られようとも、自分の恥より国のため。
勝てない戦はしないのが勇気。
耐えるのもまた戦であった。
蜀軍が撤退していくときも、慎重に慎重に追撃をし、負けを恐れすぎた結果、有名な空城の計によって追い払われた。
しかし、それで良いのだ。
司馬懿に与えられた使命は「魏国を守ること」であって「蜀軍を追撃し、蜀本国を占領しろ」ということではない。
自分の才は孔明に及ばない。策も無く策に捕われれば全滅しかない。
それを認められる司馬懿だからこその撤退であった。
その後も折を見て攻め上ってくる蜀軍に対して、機先を制する1勝(唯一孔明に勝った戦略)を得た後はひたすらに陣を固め、戦うことによって国を守るのではなく「耐えること」によって国を守ろうとしたのだ。
結果、無理を続けた孔明は病死。
蜀軍最後の総退却を孔明の指示通りに実行している蜀軍にたいして、天文において孔明の死を予期した仲達は、蜀軍を追撃するは今!と、それまでの態度と一変し、これまでにない好戦的な態度に出たそうだ。
周りが「今まであんなに閉じこもっていたのに…」と思い「もう少し慎重になられては」と諌める程だったようだ。
それでも追撃を開始した司馬懿だったが、死出の際に孔明の残した「孔明に似せた木彫りの人形」に騙されて
「しまった!これは孔明の罠だ!孔明はまだ生きている!!」
と、怒涛の追撃を行おうとしていた魏軍をまたも虚しく陣に引き返させることになった。
これが有名な『死せる孔明、生ける仲達を走らす』の由来である。
蜀が総退却をした後に、孔明は実際は死んでいて、追撃の最中に見た孔明が木彫りの人形であったことを知ると、
「死してなお大軍を追い払うとは、本当に私などの及ぶところではなかった」
そういって落胆したそうだ。
司馬懿は蜀を畏れ、たった数人の孔明の息のかかった有能な士を恐れ、蜀討伐という行動を抑えてきたのだ。
その後もなお国内から恐れられ、そこにきてもなお謀反の疑いをかけられ、何も権力をもたない幼帝の教育係という名誉職においやられてしまう。
そうやって怖いものがなくなった曹一族は、幼帝をないがしろにし、自分たちの好き放題行動するようになる。
名誉職に追いやられても我慢した仲達だが、国を思う仲達には幼帝をないがしろにする「謀反」ともいえる行動をとる者たちが許せなかった。
そんな仲達は自ら職を辞し、それに安心した賊徒が隙を見せた隙に挙兵し、皇居を占領したのだ。
本来、占領したのだから、自分が成り代わり
「このままでは魏国はつぶれてしまう!無能な者たちにこれ以上国を任せておけん!」
とかなんとか言って大義名分をたて、自分がトップに成り代わることもできた。
それでも司馬懿は賊徒征伐にとどまり、幼帝を支えたのだ。
幾度も政権を奪い取る機会はあったのに、司馬懿は一度たりともそれを行わなかった。
次々と乗っ取りが相次いだ時代に、なんという忠誠心か。
城を謀反により攻め取り、攻め取りながらも「堕落した殿・家臣を戒めるためにやったこと」とすぐに城を本来の持ち主に返した、戦国時代、美濃の武将、竹中半兵衛とも通じるところがある。
そうやって国を整えた司馬懿も、いよいよ病におかされ、死の近きを知る。
そして俺にとって司馬懿が三国一と思える言葉を残すのだ。

『諸葛亮孔明、なんと凄まじい人物であったことか。恐らく今後彼のような英雄が地上に現れることはもうあるまい。あの世では、ゆっくりと教えを乞いたいものだ。』

そう言い残し、しばらくの後司馬懿仲達は逝ったのだ。


そこまで読んで、何よりも一番グッときた場面だった。

敵であった、自分が連戦連敗し、幾度も恥をかかされ、自信をへし折られて
最後の最後まで自分に失望させられた。

そんな相手を褒め称えて死んでいける人生。
死んだ後には、教えを乞いたいとまで言える度量。
司馬懿の一生は後世に残して恥じることの無いものだったと断言したい。

俺は三国志の武将の中で、誰おいても司馬懿が一番の英雄だと思っている。
国を守ったのだ。
外の敵からも、内の敵からも。
後々、司馬懿の子孫が蜀征伐跡の魏を乗っ取り、残る呉を占領して中華統一をすることになるのだが、司馬懿がそれを望んでいたわけではなく、時代の流れだったのだろう。
盛者必衰。苦労を知らず名声もなく、生まれながらに皇帝だと言われても、支える者無くば滅びるのみ。
それぞれがそれぞれの正義をもっていたろう。
司馬懿が自分の子供達に言い残した言葉は

『くれぐれも慎重に生きよ』

ということだった。
「自分はこれまでの人生も、孔明との戦いでも、ずっと慎重に行動していたであろう」
と、自分の人生をもって子供に言い残したのだ。
権力を持つと人は妬み、除こうとする。
それを体感してきたからこその遺言だった。

疑われてもなお、最高の権力を手にしてもなお、忠義を尽くし、国を守りきった司馬懿こそが英雄であったと心から思っている。
三国無双も好きだが、司馬懿仲達が、あのバカみたいな慎みの無いナルシスト系のキモキャラであることが残念でならない。

蜀びいきで魏を敵と設定した三国志演義においても、司馬懿を悪く書くことができなかった。
すなわち、それだけ良い漢だったということは間違いない。

英雄 司馬懿仲達
もっと評価されるべき人物なのではないだろうか。
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